第2249話 戦車砲装備百式司偵を製作した理由


3年以上の休止期間を経て再開したプラモ作りですが、九五式戦闘機と戦車砲装備の百式司偵と2種類の旧陸軍機を製作してきました。
これらを選んだ理由は第2229話でも紹介しましたが、息子の影響によるもので、太平洋戦争中に西ラバウル飛行場で事故死した息子にとっての大伯父(私にとっては家内の母の長兄)の搭乗機が今回製作した2機種であると判明したことにより製作しました。


大叔父の若山善松氏の紹介は、9月4日の記事で太平洋戦争勃発までの活躍を紹介しています。
(アンダーラインの付いた紹介をクリックすると当日の記事が見られます)
山善松氏は支那事変で九五式戦闘機搭乗中に瀕死の重傷を負い、墜落後奇跡的に救出されて数年に渡る入院生活を送りました。
そんな中で昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発しました。
それ以降の大叔父の来歴を紹介します。
昭和17年(1942年)?   陸軍航空士官学校入校 
昭和17年(1942年)4月   陸軍准尉任官
昭和17年(1942年)11月 陸軍航空士官学校卒業(第二十二期学生)
昭和17年(1942年)11月 陸軍明野飛行学校付きとなり、戦車砲搭載百式司偵の訓練実施
昭和18年(1943年)1月  横須賀から海路トラック諸島経由で戦車砲搭載百式司偵と共に西ラバウル飛行場へ
昭和18年(1943年)2月  西ラバウル飛行場到着後、第六飛行師団第十二飛行団特殊攻撃隊所属となる
昭和18年(1943年)2月  陸軍少尉任官
昭和18年(1943年)3月2日 西ラバウル飛行場近くで事故死。享年25歳。同乗の偵察員は奇跡的に救出。
昭和18年(1943年)3月   事故による死亡であるため、戦死扱いでなく殉職扱いになるも1階級特進し、中尉となる
昭和18年(1943年)4月18日 ラバウル飛行場から出発した山本五十六元帥搭乗一式陸攻ブーゲンビル島上空で米軍のP-38の攻撃で墜落


山善松氏が支那事変で大変な負傷を負い、数年にわたる入院生活後、再び陸軍航空士官学校に入校したことに愛国心を感じます。
西ラバウルでの事故死した経緯は、同乗していた偵察員 高倉松雄氏のお話によるとラバウルからガダルカナルに向けて飛行中に右エンジンが停止し、片肺で西ラバウルに帰還する途中でラバウル上空に差し掛かったところで左エンジンも停止してしまった。もともと機首に重い戦車砲を取り付けた機体はバランスが悪く、機体を立て直すことができずに墜落したそうです。


渡辺洋二氏の著作でも当時南東方面への陸軍航空部隊が進出したことに無理があり、機体整備要員・機材が不足している事による機体整備が十分に行われない事や操縦士が海上での作戦行動に慣れていないなどで航空部隊が十分活躍できる状況ではなかったようです。


山善松中尉が受領した勲章