第2238話 九五式戦闘機を製作した理由


今回3年以上の休止期間を経て再開したプラモ作りですが、九五式戦闘機を選んだ理由は第2229話でも紹介しましたが、息子の影響によるものです。
息子は数年前から太平洋戦争中に西ラバウル飛行場で事故死した親戚の大伯父(私にとっては家内の母の長兄)について強く興味を持って調べていました。
息子に同行して石川県在住の遺族に会って当時の話を伺い、遺品も見せていただきました。また色々な書籍やインターネットで搭乗機についても調べており、次第に私も興味を覚え、いつかプラモを製作しようと思うようになり、今回やっと製作した次第です。


息子にとっての大伯父、若山善松氏の来歴を簡単に紹介します。
大正7年(1913年)1月20日 石川県珠洲市で誕生。
昭和10年(1935年)1月 陸軍第二期操縦生として所沢飛行学校入校。
昭和11年(1936年)11月 熊谷陸軍飛行学校第二期操縦生徒卒業
昭和11年(1936年)11月 陸軍飛行第5連隊第四中隊(立川)に配属
昭和12年(1937年) 7月 盧溝橋事件発生(支那事変勃発)
昭和12年(1937年) 7月 支那事変勃発に伴い、陸軍飛行第5連隊の一部が中国の北支に派遣され、臨時航空兵団第一飛行団飛行第二大隊に組み込まれる。


昭和12年(1937年)11月13日 北支 山東省徳縣近くの津浦(しんほ)戦線にて戦闘機で地上銃撃中に敵弾により負傷。出血多量によりに墜落するも奇跡的に救護される。(階級:伍長)
下顎骨骨折挫創・左右上眼瞼擦過裂傷・右上膊擦過挫創・右大腿骨骨折を受け外傷性右股関節炎となる。以降立川にある軍病院などに入院し、数年にわたる治療を行う。
昭和13年(1938年)12月 陸軍航空兵曹長任官
昭和15年(1940年) 2月 軍人傷痍記章受領
昭和15年(1940年) 4月 勲七等青色桐葉章受領
昭和16年(1938年)12月8日 真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)

若松善松氏が北支で負傷した時に搭乗していた戦闘機が今回製作した九五式戦闘機と思われますが、飛行第二大隊の所属中隊まで分からず機体塗装や機体番号までは分かりませんでした。
なお、太平洋戦争中のインドシナビルマ戦線などで大活躍した「加藤隼戦闘隊」の加藤健夫中尉も立川の第5連隊から北支に派遣され、昭和13年(1938年)8月に編成された飛行第64戦隊飛行第二大隊第一中隊長として九五式戦闘機で大活躍されました。